2010/08/12

7月20日 Day 4 - 3

マリーン渓谷を後にして、ジャスパーの町へと向かう。

今回ジャスパーに来るにあたって、是非行ってみたかった場所がある。


ここに、ジャスパー国立公園内にあるアルバータ山に1925年初登頂した日本人、槇有恒が山頂に残した後、数奇な運命を辿ったピッケルが展示されているから。

先日名古屋に行った際にお邪魔したお宅のご主人と話していた時に、以前登山がお好きだったという話から、槇有恒という登山家の名前が出て、その名前を聞いた私は反射的に「その人のピッケルが確かバンフの方の博物館にあった筈…」と言ってしまった。 

私の両親は学生時代に山登りをしていたものの私自身は植村直己と野口健程度しか登山家の名前なんて知らないのに、その発言が自分の記憶のどこから出たのか全く思い出せないまま、昔の登山家の話なら父か母のどちらかから聞いたのだろうか…?等と悶々としながら自宅に戻った後、槇有恒の名を元にググりまくり、槇有恒がアルバータ山初登頂した際に残したピッケルが巡り巡って現在ジャスパーイエローヘッド博物館に保管されていることを知ったのです。

更に、日本の某TV番組がこの件を特集した番組の動画も発見。 ロッキーの映像も多く、槇有恒とピッケルにまつわる逸話が詳しく説明されていたので、興味のある方は見てみて下さい(時間帯によっては回線が込んでいて繋がらないかもしれませんが、[加入する]ボタンは無視して根気よく時間を変えてトライしてみて下さい)。 

博物館自体は建物のわりに展示スペースは小さく、殆どがジャスパーの歴史(先住民や毛皮交易、鉄道史)の紹介。 その一角にアルバータ山登頂史コーナーがあり、ピッケルが!



銀のピッケル
日本人パーティーが登頂を試みた1925年の夏、アルバータ山はカナディアンロッキー山脈の主な山のなかで、唯一未登攀の山でした。
槇有恒が率いるこの日本登頂隊は、ほぼ垂直に切り立った岸壁に長い時間をかけて敢然と挑戦しました。 特に険しい岩の隆起部分では人間はしごを組み、数々の障害を乗り越えて初登頂に成功したのです。
7月21日午後7時35分に山頂に到達した同パーティーは、この荘厳なる山を征服した証しとして山頂にピッケルを置いて下山しました。 何年もの間、地元ではこのピッケルが銀製で、日本の天皇から下賜されたものであると言い伝えられていました。
それから23年経った1948年、アメリカのパーティーが第二の登頂に成功し、山頂で氷の中に埋もれたスイス製の普通のピッケルを見つけました。 しかし、取り出そうとしているうちに下部が折れてしまい、彼らは手元に残った上部四分の三を持ち帰りました。 それはニューヨークのアメリカ山岳クラブ博物館に展示されました。
その後1965年に長野高校山岳部OB隊がこの山に日本人パーティーとして二度目の登頂を果たし、ピッケルの残り部分を回収しました。 ピッケルの上部は1995年にアメリカ隊からもカナダに返還されました。 そして、アルバータ山の山頂に最初に残されてから75年経った2000年8月、この二つに分かれた伝説のピッケルはアルバータ州ジャスパーでの特別式典でついに合体したのです。
このピッケルはカナダ、アメリカ、日本の登山界が共有する歴史に敬意を表して、ジャスパー山岳博物館に展示されることになりました。

山頂に残したメモ
「一九二五年七月二十一日午後七時半、
十六時間の健闘の後に頂上に達す。
案内人フ-レル、コ-レル、助手ウィ-バ-以下
六名の一行は、遙けくも日本よりこの偉大なる山嶽を
慕いて来たれるものなり。」





尚、このピッケルは天皇が下賜したものではなく、槇有恒にアルバータ山登山をそそのかした細川護立公爵から贈られたものだそうです。

引き続きググっていたら、この話が中学道徳教材に紹介されているとか。

こちらの ●466、●467、●468に、1925年(大正14年)当時の登頂を伝える記事や、槇有恒の手記もありました。

槇有恒のパーティーが初登頂に成功したのが、1925年7月21日(大正時代!)で、私達が訪れた日が7月20日。
あと一日で、ちょうど85周年。

そんな昔にスイスアルプスを制覇したり、こんなところまで山登りに来るなんて、すごい日本人がいたもんだ!!



400 Pyramid Lake Rd.
(780) 852-3013
Box 42, Jasper, Alberta,
T0E 1E0

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